母の逝去で体験した「アフィリエイトが資産になる」という話


私がアフィリエイトをやっていて、しみじみ「よかった」と思っていることがあります。

それは、最愛の母を亡くしたときのことです。

「えっ?」とちょっとびっくりされたかもしれませんが、
決して忌み嫌うような悲しい話ではなく、あくまでもアフィリエイトの話ですので、
ちょっと長いですが、そのときの話を聞いてください。
 

あんなに元気だったのにやはり衰弱してしまった母

母は身体は丈夫で風邪1つ引かない健康体。

人一倍働き者だったし、健康だったし、
何でもできて何でも知っていて、私の心の支えでした。

だから、きっと90歳でも100歳でも元気でピンピンして生きているだろうね、
なんてみんなで笑いあってきたものです。
 

それが数年前に少しうつ状態になったことをきっかけに、
だんだんと認知症がひどくなり、徐々に食欲も落ちてやせ細っていきました。

幸い姉が隣の家に住んでいたので、母のケアもしてくれていたのですが、
やがて一人では生活できなくなって姉の家に引き取り、
晩年は、ケアホームに入所して暮らしていました。
 

食欲もないので食事もあまり食べないのですが、
たまに食べると、誤嚥して食物が気管の方に入って苦しむし、
それが度重なって肺炎にもなるし・・・

今、この症状になって亡くなっていく方がほとんどと聞いていますが、
私の母も、そのいわゆる「老衰」の道を静かに進んでいきました。
 

お見舞いに行っても、もう私が誰かわからないのは当然で、
それどころか、人がいるとかいないとかいう気配さえも分かっていない様子。

いつ行ってもほとんど目をつぶって眠っているし、
起きているのは、必ず気管に唾などが入って苦しむときだけでした。
 

「今度こそはもうダメかも」・・・との電話が

それでも、母が生きているということで安心し、
日ごろの世話や手続きなどはすべて姉に任せていたのですが。。。

3月下旬頃、姉から「今度こそはもうダメかも」と電話があったのです。
 

今までにも数回「かなり危ない」ということはあっても、
それでもなんとか持ちこたえてきたので、
今回も大丈夫なのでは・・・とは思いましたが、
日ごろ母を見ている姉がそう言うにはやはり予感するものがあったのでしょう。
 

それで取るものもとりあえず大急ぎで母の元に

容体は急変というわけではないので、相変わらず寝ているか
起きてむせているか、喉や鼻につまった痰などを看護婦さんに吸引されているか、
もうそれだけの生活です。
 

私が行った日には、食事はとうに摂れなくなってきていて、
それでも栄養剤の点滴はしていましたが、
すでに点滴液すらも身体が受け入れない状態になってきていることを医師から説明され、
もう無理な延命措置は取らずに点滴もはずして、後は静かに枯れていくのを見守るだけとなったのです。

本当は食事もさせてあげたいし、飲み物も飲ませてあげたいけれども、
それができる時期はとっくに終わっていたのですね。

でも、医師の説明では、今の状態というのは、幸せホルモンが分泌されている状態で
本人にとっては、はたから見ているほど辛いわけではないのだそうです。
 

いきなり私が泊まり込むことに・・・

私は、数日姉の家に泊まって、このケアホームに毎日通うつもりでしたが、
ホームの計らいで、母を広くて明るい個室に移し、そこに私のベッドも入れてもらえたのです。

それで、しばらく私はここで母と2人で過ごすことに。
 

姉と妹がおりますが、どちらも仕事で忙しく、とても泊まり込みはできません

でも、母は夜中になると咳き込んで苦しむのです。

ホームでは夜中も1時間ごとに見回りが来るので、安心ですが、
やはりその苦しんでいる間の状態を見てしまうと、母を一人で放っておくには忍びなく
夜中私がついていてあげたいと思ったのです。
 

姉もそれならそれでありがたいとはいうものの「仕事は?」と気にしてくれます。

でも、私、もう数年前から自営ですし、
ノートパソコンも持ってきたので、大丈夫!

「とにかくしばらくここにいるよ」と、母と過ごす日々となりました。
 

家の方はもう子供たちはみな巣立っていて、一緒に暮らしているのは主人だけです。

主人は一人でも食事や洗濯などができる人なので、
「しばらく母のところにいる」と電話しただけでOKです。

これは本当にありがたいことでした。
 

父のときには看取れなかった・・・

実は、父が亡くなったときには、私は子育て真っ最中ながら都心の会社に通ってフルタイムで仕事をしており、見舞いもそこそこに不義理を重ねていたのです。

そして、父自体、容体の急変ということもなく、
静かに眠るように逝ってしまったのです。

父はもう口は利けず身体も自由が利かない身体になっていましたが、
特に変調もない日の夜に、夕飯を食べ、歯を磨き、
口は利けなかったものの「ではおやすみなさい」とベッドに入り、
そのまま安らかに逝ってしまったということで、

その晩電話を貰い、翌日駆けつけたときには、すでに身体も清められて静かに棺の中で眠っていました。
 

死に目に会えたからどう、最期を看取れたからどう、ということではありませんが、
こうして父を亡くしていたので、母が危ないと聞いたときには、
何をおいてもまずは駆けつけ、
そしてこうして同室に寝泊まりできるようにもしてもらえたのだから
もう最後まで母には付き合おうと思ったのです。
 

ただ、生きてはいると言っても、もう母は目を開けません。
久しぶりに会えたのに、会話をすることもできません。

たまに苦しくなって、う~う~とうなり出すと、看護婦さんを呼んで痰を吸引してもらいます。

でも、この痰吸引がとても苦しく辛そうで、何の反応もない母がこのときばかりは涙を流すのです。
吸引しないままなのも可哀そうだし、吸引するのも可哀そう。

それでも、とても暖かく行き届いたケアで、そのような状態になっても入浴もでき、
車いすで散歩もし、目は開けないまでも、
庭に咲いた桜を愛で、春の爽やかな風を受けながら、母との最期の時を過ごしていました。
 

一緒にいたからと言って大きな反応もないけれど、
母の手を握り、手足をさすったり、髪の毛をとかして頭をなでてあげたりすると、
咳き込みも止まって穏やかな顔をするのが唯一の反応です。

耳は聞こえているのか、母の好きな讃美歌を歌ってあげると、呼吸も楽になるようでした。
 

週末に、妹に1晩代わってもらって自宅に帰り、
自営の仕事での最低限の作業と家事の最低限をし、
また荷支度を整えて、長期戦で泊まり込むことにしました。

親族も集まり、ひ孫たちも来て賑やかにしたけど、もう母は目を開けません。
 

そして、母も本当に最後だったのでしょう。

私が戻って数日後に、血圧や脈拍などすべての数値がどんどん下がり、
私も見ていて、もうこれが本当に最期なんだとわかりました。
看護婦さんが酸素ボンベを持ってきて、母の口にあてがってくれました。

そこで、姉と妹に連絡し、姉が姪2人を連れてやってきて、
みんなで母の手を取って、母が好きだった讃美歌を歌いながら、
その歌の途中で母が逝くのを看取りました。
 

平日だったので妹は会社を早退して駆けつけましたが間に合わず
母の顔を見て泣いていました。
 

母の死に際して改めて思うこと・・・

さて、なんでまたこんな話をわざわざこのブログでしたか・・・というと、

私が数日間、家も仕事も放り投げて母の隣で寝起きしてずっと母に付き添えたこと
それを今さらながら、ありがたく思うからです。

そして、それをあなたに知って欲しいと思ったからです。
 

父の時には急だったということもありますが、
もしも数日前に容体が変化して連絡を貰っていたとしても、
仕事のあった私が、子供たちを置いて父の元に駆けつけて
数日を共に過ごすことは、やはりできなかったと思うのです。

でも、今回数年経って、今度は母を見送ることになったとき、
私はもう脱サラをして独立しており、
仕事が忙しい忙しいとはいいながら、自由が利く身だったのですね。
 

以前、子供のためにも母親は家にいた方がいい。
家で収入を得られるなら最高だと書きました。

父のときにはできなかったことが母のときにはできたこと、
これは私がお勤め人ではなく、自営だったからこそできたことでしょう。

まず、この意味で「本当によかった」と思っています。
 

さらにもう1つよかったことがありました。

実は、母に付き添った日を含め、その後、お葬式の準備やらお墓の用意やら
関係者への連絡や・・・・、やることは山ほどあって、
逆に私は、自宅に帰るに帰れない状態になってしまったのです。

今まで自分も働きながら母のケアをしてくれていた姉も、
泊まり込みこそは私が代われたものの、
今度は喪主として対応していかなければなりません。
 

そんなわけで、途中また1度は自宅に戻ったものの、
私は実質半月以上、家を空けていました。

当然その間、本業の仕事もアフィリエイトもできません

せっかく毎日1記事投稿を続けてきたブログも、もう半月も放ったらかしだったんです。

でも、もうそんなことはどうでもいい!

そう思って、家を空け仕事を開けアフィリエイトもやらずに母のことに専念しました。
 

そして、無事に納骨まで済ませて自宅に戻って、
さて、これからは母がいなくても私は頑張っていかなくては・・・
と、仕事を再開。

そして、恐る恐るアフィリエイトの報酬画面を覗くと・・・・・
 

えええっ?
半月も放っておいたのに、収益が上がっているのです。

途中、独自ドメインの更新時期が来たらしく手続きすらしていなかったので
アクセスが激減している日もありましたが、
慌てて手続きをすると、独自ドメインも復元でき、
その月のトータル報酬は、その前の月の15万円には少し足りなかったものの、
12万円もあったのです。
 

これには本当に驚きました。

もう母のことで最期まで看取れたのですから、そのせいで今までのアフィリエイト報酬がすべて吹っ飛んで0になってしまっていたとしても文句はないと思っていました。

毎日投稿していたのが半月も放ったらかしだったなら、
もうブログが再起不能になっていても当然だと思っていました。
 

それが、私がまったくの放ったらかしにしていたのにも関わらず、
途中、独自ドメインが吹っ飛んで、アクセスが激減したのにも関わらず、
12万を超える報酬があるなんて。。。。

これが「ブログが育てば資産になる」ということなのか、
と改めて実感した次第です。

そして、その翌々月には、月20万円を超えました
 

ブログを始めたばかりでこのように半月も放ったらかしにしたら危険でしたが、
昨年から始めていて、本当によかった。

ちょうどこの時期に十分ブログが成長してくれていたのです。
 

普通の会社員なら親が危篤と聞いても、そのまま何日も泊まり込んで看取るなどということはできません

もしできたとしても、その間の欠勤などのペナルティは大きいし、
関係する多くの方々や勤務先や家族にも迷惑をかけます。

また自営で多少の都合がついたとしても、やはり休んでいた期間の無収入は大きな痛手となるでしょう。
 

幸い、私は自営していたのもネットビジネスであったこと、
アフィリエイトのブログもちょうど成長してきたこと、
この2つが相まって、半月も空けていたのに大きな減収には至らずに済みました

そして、何よりも最愛の母に付き添って最期をきちんと看取れたことが
何よりもありがたく嬉しいことです。
 

アフィリエイトというと、どうしても「自宅にいながらにして楽して稼げる」という面がクローズアップされますが、もっと大きな側面もあるのです。

母親や娘という立場の人が、勤務先に行くことなく、
子育てをしたり病人の看護をしながら、収入を継続的に得られるという利点
は計り知れません。

また、半月も何もしないで、それでいて収入になるって、
今思うと本当にありがたいことです。

アフィリエイトには、こんな一面もあるのです。


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